徳永先生(美容外科で決断)

平成元年、美容外科天神の長谷川院長はスポンサーの人たちと組んで全国展開し福岡院は留守ばかりになり、私は非常勤勤務を辞めました。
それで福岡で一番の技術力と知った徳永美容形成外科の徳永慎介先生の門を叩きましたが、すぐ断られました。当然とは思いました。でも諦めきれないので、長い長い手紙を便箋11枚で漫画のイラストまで添えて送りましたら、後日お電話が架かり「熱心なようだから来て良いですよ。」と言われました。
徳永先生は元昭和大学形成外科助教授で、クリニックには同じく元昭和大学形成外科助教授の見寺先生も居られ、また非常勤で昭和大学形成外科の角谷助教授、近藤教授、また帝京大形成外科の一瀬助教授が来られ、当時、姪浜クリニックという本格手術を行う分院で難易度の高い手術が次々に行われており私は圧倒されました。韓国の大学教授を呼んでは、手術台並列で徳永先生とフェイスリフト手術で競い合っていた日もありました。
私はここに2年7ヶ月、月4~6回くらい通わせて頂き、技術的に多くの事を学びましたが、同時に『美容外科の開業医がここまで立派なことができるなんて思いもよらなかった。だから美容外科をやるというのをそれほど卑屈に思う事もないんだ。』と実感しました。また徳永先生は患者さんの立場で医療をやっている先生で、金儲け優先の同業医師とは別格とも悟りました。それで今まで私にとって『やりたい、やりたい』と魅かれるくせに倫理的にどうも踏ん切りがつかなかった美容外科でしたが、徳永先生を目標とすることで美容外科を人生の目的にすることを決断しました。医師4年目のことです。徳永先生は昭和の形成(但し藤が丘)に行くのを強く勧めて下さいましたが、これはなかなか決断がつきませんでした。
 しかし翌年私は大学の整形外科の医局を辞め、関東に身を移して徳洲会系病院を勤め上げた後、大手美容外科に勤務し、縁あってヤスミクリニックを継承しましたが、そこに至るまで徳永先生に教えを乞うた日々から約12年かかりました。辛い事も多々ありましたが、美容外科を極めるという気持ちを保ち得た事は徳永先生のおかげと深謝しております。
(なお徳永先生は高須クリニック高須克弥先生とは同級生で、「た」と「と」のため一緒に実習する間柄で高須先生は「徳ちゃん」と呼びます。「徳ちゃんに開業を勧めるんじゃなかった。そうすれば昭和の教授になっていたから・・・云々。」と高須先生がハイテンションで私にお話されて下さいましたし、徳永先生も高須先生のお話をされる時は妙に寛容になられていたので、いわゆる親友の間柄と思います。)