美容外科でタダ働きをしていた頃(北九州・門司に居た頃)

本日は出張で北九州の小倉に寄りましたが、私は30年前の1988年に北九州市の門司労災病院(現:九州労災門司メディカルセンター)の整形外科に大学医局から出向していました。

あの頃は、門司労災を土曜は13:00で上がると、車で高速道路を疾走して14:00までに福岡市の天神の美容外科に行っていました。そこは日曜も診療していたので、日曜は10:00から行っていたものです。

写真に挙げたように、今回小倉駅周辺を見てみましたが、懐かしさが全くありません。『そういえば整形外科と美容外科の勤務、高速道路で門司⇔福岡の疾走ばかりで、小倉に遊びに行った事など無かった!」と気付きました。

さて福岡・天神で腕が磨けたのは埋没法です。そのうち1日に10人以上、多い日は15人くらい手術を行うことがありました。
しかし実は1988年の時はタダで働いていました。研修医の身でしたから、「タダでいいから勤めさせて下さい。」と懇願し同年2月に入れて貰った経緯があります。

無給で働くなんて!?と一般の人は思うでしょうが、当時は私が奉職していた大学病院でも他大でも卒後数年目くらいまでは無給医局員として働くのは当たり前でした。技術を教えて貰っているのだから授業料として相殺という発想です。

だから私もお金が貰えないのは苦に思わず、むしろ研修医2年目のパート医なのに埋没法を担当させて貰えることを非常に感謝していました。3例目迄は院長が私の真後ろで終始見張っており、3例とも上出来だったので、4例目からは術後の仕上がりを院長がチェックというスタイルが続きました。

そして1989年(平成元年)の春からは、院長の方から「埋没法一人につき1万円のバイト料を渡しますよ。」と言って頂き、一日で十万円以上稼ぐ日々が生じました。そのため門司労災での給与(月の残業160時間くらいで月給30万円台)より美容外科のバイト代の方が多くなりました。

ただ、あの頃の私は整形外科や美容外科で体力が続く限り働くか、欧州史の本を読むだけで、お金はあまり必要としませんでした。

この夏からニュースになっている医学部入試で若い男子学生を優先して入学させる実態は、奴隷のように働くのを厭わない若い男性医師を求めたからですね。私もその一人だったと思います。