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2012年2月3日, 11:43 PM
本日は全切開を2人やりましたが、女性の目を変える事の責任の重さをヒシヒシと感じつつ行いました。1人目の人など「佐々木希の目にしたい。」と初診の時に切なる気持ちで言われていましたので、女の子の願いを実現させ、人生を変える。そういう立場に居られる自分を凄く嬉しくも有り難い。と又々感じました。
特にこの人は前医の全切開では思いが叶えられなかっただけに、私が決めて見せる!との思いを、『小宇宙(コスモ)を極限まで高めたメスさばきで披露する。』などと聖闘士星矢での美しいワンシーンが脳裏をよぎりながらの手術となりました。
2人目の人は睫毛を外に向け(外反)、目に華やかさを出すのが主題でしたが、やり過ぎると、いかにも整形の目となりがちで、その辺のサジ加減に解剖学的知識、経験と勘、センスが問われるます。芸術家の感性で、カリツォー(氷結リング) を作るつもりでやるんだという気持ちでやりました。
私は人並み程度には時事問題に関心はありますし、西洋史の勉強は35年続いていますが、芸術家になれる美容整形の方がやはり本質的なんだと思っていますし、本日もそう思いました。
2012年1月24日, 2:44 AM
ナイトクラブというのに私は日頃行かないので、受付を済ませると席の番号札を渡され、黒服のお兄さんに案内され「こちらのお席です。」と言われて着席しましたが、最初は妙に落ち着きませんでした。
ですが、高須先生が壇上でスピーチしますと、ここは高須ワールドなんだと納得して楽しく観覧させて頂きました。
高須先生が主催の日本美容外科学会や世界美容外科学会はいつも派手な演出があり、特に懇親会でのパフォーマンスにはTV局が取材に訪れ、本当にテレビで一部が放映もされたこともありました。この派手さだけを観ますと医師の中には「私は(地味で派手には)ついて行けないよ。」と思われる人もいると思います。しかし私は高須先生の同級生で親友の徳永先生から高須先生の地道な粉骨努力のお話も聞かされており私も20余年垣間見て来ました。この努力と結果を出して来た高須先生の歩みを知れば、多くの医師は「私は(力不足で天才には)ついて行けないよ。」との感想を持たれる筈です。
高須先生が美容外科を日の当たるところに出した。2つの美容外科学会の両方の医師たちに多大な技術的な向上をもたらせた。そして今は2つの学会の統合に向けて熱心に動いておられる。会場を見れば、美容外科学会大森系(JSAPS)の医師も、また大学病院医学部、形成外科の元教授たちも来られており、このような先生方は高須先生の真面目な功績をキチンと理解されているのだと思います。
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2012年1月23日, 1:08 AM

1月22日、六本木の東京ミッドタウンでパーティーがありました。現在の美容外科の姿を創られた“先駆者”たる高須克弥先生も67歳となられましたが、まだまだお元気という感じで息子の高須幹弥先生にバトンタッチは、もう少し先と感じさせました。
パーティーは郷ひろみさんの祝辞、野村夫妻や高須先生のトーク、モノマネ名人や歌手の歌で22時まで続きました。私は写真のように壇上の席で舞台を観ながら、高須先生と出会った頃や、それ以後の事を回想したものです。
私の右横では録画係の人が真剣に大型カメラを操作しており、高須家の記録として後世に残るものと思いました。
私の2つ左に江崎哲夫先生が居られ、私は高須先生の事をお尋ねしますと、何と「高須先生は僕(江崎先生)が昭和45年に美容外科を開業したら、すぐ訪ねに来て、それが度々ありましたよ。」と言われ、昭和44年に医学部ご卒業の高須先生は常勤医として整形外科を専攻しながら、研修医の時にもう美容外科クリニックに出入りしてたのだと知ると、『私(木村)と同じだ!』と思い、またまた高須先生に親近感が湧きました。
帰りに鶴切先生がご夫婦で来られていたのでご挨拶しましたが、初めてお目にかかる奥様が、背丈がスラッとして且つ、かなりの美貌の持ち主で、自然に「お綺麗な奥様にお会い出来て光栄です。」との言葉が出ました。
最後は大勢の人が高須先生と2ショットで撮影をし、私は握手までして会場を後にしました。
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2012年1月21日, 11:11 PM
本日は美容外科学会学術集会がありましたが、丁度1年前は満席で立ち見が出るほど盛況だったのに、今回は空席も目立ちました。
抄録集を読めば演題が注入系、レーザー系、糸のリフトで4分の3位を占めたので、純然たる外科医(Messerseiten)にとって惹かれる程に映らなかったのだと思います。
むしろ美容皮膚科学会で、同じ演題で参加を呼びかければ、もっと出席者が多かった筈と思います。
レーザー系とは「美肌治療」なので、女性医師ばかりが発表していましたが、私は自分の守備範囲ではないなと思いつつ聞いていました。
しかし私自身は実は20才の頃から、自分の肌を傷めないように気を使っています。それは紫外線を浴びないこと、毎日アスコルビン酸(ビタミンC)の粉を、約2g摂取してきたことです(もう31年間もです)。それにこの7年は毎週プラセンタ注射を打っているからか、51歳の男の肌としては抜群に良いと患者さんから褒めてもらっています。
尤も私の肌質は子供の頃から綺麗な方で、小学校1,2年の頃は近所のオバサンたちから「うん、まあ!色白で綺麗な肌ね。それにパッチリ二重。女の子だったら良かったのにねぇ。」などと、よく言われていました。
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2012年1月18日, 12:13 AM
「安井夏生」・・・この先生のお名前を知ったのは平成2年です。私が日本創外固定研究会・骨延長ワークショップ(当時の名称)に入会・参加・発表した年です。学会参加中に、安井先生の最先端を行っている発言を見聞きしましたから、まだ若いけど学会をリードしている先生だと直ぐ分かりました。同年秋に久留米大学整形外科の医局が安井先生が翻訳された「骨延長―その方法と適用」の医学書を購入しましたので、一通り読んで、骨延長への憧憬が更に高まりました。それは私が久留米大学整形外科で初の骨延長の患者さんの主治医になった事があった思い出に積み重なったものでした。
当時、安井先生は防衛大病院整形外科に所属されていました。それで翌年春に私が湘南鎌倉総合病院の整形外科に移籍した際、『関東での骨延長は安井先生の防衛医大か黒川先生(教授)の東京大学の2つが、まともに取り組んでいる施設だから、どっちかに勉強(見学)に行きたい。』と思いました。結局後年にはなりましたが東京大学病院に6~7回、外来および手術の見学をさせて頂きました。なお黒川教授はスンナリ見学をOKして下さいました。大学病院とは教育機関ですから当たり前とも言えますが。
そういうことで安井先生と私の接点は殆どありません。たった1回だけ、学会の休憩時間の際に、アルビジアネイルの事など少々ご質問し、お答えして頂いただけです。
じゃあなぜブログに接点の殆どない先生の事を書かせて頂いているのか?と言えば、安井先生ご自身が書かれたと思えるHP「若者の夢」を見つけて「面白い!」と思ったからです。そのHPに添付の写真がありますが、先生は昔、剣道部のキャプテンだったからでしょうが、刀を振り上げた姿を載せるなど意外に『型破りの先生だったのか。』と思ってしまいました。
今は徳島大学整形外科の教授に就任されておられますが、上記HPの中に「私自身は小児整形外科、特に骨延長術の分野で世界を極めているつもりですが、」とありますように骨延長の第一人者として今後も仰ぎ見るつもりです。
2012年1月13日, 8:19 PM
本日は創外固定・骨延長学会があったのですが、学会誌の表紙がモトローラフォンにようなデザインで、こういうのが流行りかと笑えました。
さて演題ですが、「ラット脂肪由来幹細胞移植による骨延長部骨形成促進法の開発」というのがあり、脂肪由来幹細胞(adipose-derived stem cells)は骨延長部の骨成熟を促進する」との仮説立てて注入した金沢大学整形外科の先生たちがいました。
結果は有意に組織学的にも軟骨性骨化の促進を認め、骨成熟促進に関与していることが示唆されたとありました。
この件は大変興味深くあります。実は骨延長部の仮骨部に幹細胞を注入しようという臨床医療は十数年前から行われているのですが、切った骨の上下から骨髄液が来るのだから、もうわざわざ腸骨あたりから骨髄性の幹細胞を移植するまででもないという意見と、いや、やはり意義があるという意見はぶつかっていて統一した見解を観ていません。
これが骨髄由来でなく脂肪由来なら、また違うのか??と私には思わせたのでした。
なおこの幹細胞の件ですが、美容外科学会ではキチンとデータも取っておらずに真似事だけで費用を上乗せしている医療機関があるとの批判も多々出ています。
2012年1月9日, 2:22 AM
十数年前、学会の合間でしたが、今は長老となられている先生が立ち話で我々にこう言いました。「私が二重手術となれば全切開しかしないのは、患者には保険も利かない高い金を払わせているのに、埋没法のようなラインが取れるかも知れないような不確実な事は、やりたくないからじゃよ。」・・・その時、私はこう思いました『女の子の感性で思考が出来てない。』『ラインが絶対取れない代償のために、パンパンに腫れて3ヶ月は整形っぽく、そして傷は一生残る。これでは未婚の女性はなかなか受け入れられない。』・・・社会復帰や傷を「ああ大丈夫です。」などとサラリと言ってしまう医師の中にも精緻な良い仕事をする方が居るのは事実ですが、実は美容外科が向いていないんだと思います。医師の美容外科への向き不向きとは究極のところ『女の思考で考えられるか。』ということでないかと思います。
私が昔、漫画を描いていた時、綺麗な女の子を描く際は、頭の中ではその娘に成りきるくらいの感情移入しないとオーラを放つような絵は描けませんでした。絵書きの職種の人が同じような言葉を綴っているのを読んだ事もあり大半の人は同じと思います。そして美容外科もやはり同じなんだと思います。
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2012年1月2日, 11:53 PM
高須先生とは色んな意味で凄い先生だと思っていますが、向かって左のお写真は43才位の頃、右は63才位の頃ですが、どっちが若いか分かりません。
43才の頃は昭和63年で私が初めてお会いした時でしたが、この写真以上に彩だった個性を放っておられ、パンチパーマに、ナスぶち眼鏡。レンズの上の方に薄く色が付いてサングラス風のものを掛けておられ、そして薄く鼻髭、もみあげも長めという感じで、一目見て並みの医者じゃないと分かるものでした。そして美容外科学会でのご発表も質疑応答もスラスラをよどみなく斬新な手術法やその解説をはなされ、そしてそれが私たちにとって聞いて分かり易く面白く、高須ワールドに惹きつけられているという感じでした。私は十仁系(JSAS)、大森系(JSAPS)の両方の学会に出ていましたが、正直言って楽しいのは十仁系で、その源泉は高須先生にあったと感じています。
当時から雑誌での宣伝1つとっても、高須先生は診察中の風景の写真で、手術用の帽子でなくタオルで頭を包んで後ろで結んだ写真を載せたものがありました。あれは自然体の表れかパフォーマンスか分かりませんが、自由人で且つ芸術家のイメージを放ってました。しかし並みの医者が頭にタオルを巻いても、患者さんには工事現場の作業の人の真似をした奇異な感じにしか映らないはずですが、高須先生なら決まっていたのでした。
平成8,9年頃でしたか、美容外科学会で高須先生のダブル豊胸のご発表に、疑問を持ってフロアーから質問した先生がいましたが、高須先生のお答えの直後、「高須先生が言われるのですから納得します。」と言われたのには皆が笑いました。梅澤先生、稲葉先生に並んで学会の顔として高須先生は突出していたのでした。
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2011年12月28日, 2:21 AM
私が高須先生に初めてお会いしてご挨拶出来たのが昭和63年5月でしたから来年で24年前の事となります。それ以前から雑誌・テレビ・書籍でも注目していましたから四半世紀以上、私は高須先生を仰ぎ見ています。
“クイック整形”、“プチ整形”なる造語は高須先生のご発案で、テレビ・雑誌などを通じて美容外科を国民に身近にしました。 また全国チェーン展開も高須先生が先駆けで、高須先生の影響はあまりに大きく、史上最大の美容外科医と言って過言でありません。
高須先生のご発言が十数年前にインタビューか何かで書かれていたのですが、「日本の美容外科医の半数は高須クリニックに何らかの形で関わっているんですよ。」とは正しかった気がします。以前は昭和大学形成外科の医局員の多くが非常勤の形で高須クリニックにバイトに来ていました。私が平成の初め頃に度々通っていました徳永美容形成外科で、昭和大学形成外科の同門会誌を昭和50年頃~平成2年分まで全部読みましたが、50年代の初めの頃は同門会の記念撮影に高須先生も写っています。徳永院長から「この高須クリニックの症例写真は私が執刀した人ですよ。」などと聞いた事もありますし、徳永先生は高須先生と昭和の同級生で「た」と「と」の席次の関係で一緒に実習等された親友の間柄、高須先生の事はよく聞かされました。
また徳永先生の前に私がお世話になった長谷川先生も高須クリニックにご勤務されてからのご開業だったので、その先生方から指導を受けました私も「高須クリニックに何らかの形で関わっている」1人と見なせると思います。
私が美容外科を学び始めた頃は今以上に美容外科医は「高須!」と聞いただけで羨望と目の眩む思い、中には嫉妬等と、様様な気持を持って皆が突出した存在と認めていました。会ってお話できれば、その不思議なオーラに魅了されますから、その美容外科医は、どちらかと問われれば、親「高須」の立場になっているものです。
その高須先生と私は今では学会で何度もご挨拶やお話できるようになり、この度、パーティーの招待状も送って頂けるようになったのを感慨深く、また有り難く思います。
“天才”高須克弥先生の記念パーティーが楽しみです。
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2011年12月25日, 11:33 PM
高須克弥先生のパーティーご招待の封書が届きました。宴は来年1月です。もちろん私は出席します。
封書には昨年の大震災後に被災地に入り「不眠不休で働きましたが、その中で人の役に立つ喜びと 医局に入ったばかりの若き日の情熱が身体を突き動かしていました。」と書かれてありますが、若き日の高須先生は日本鋼管病院で整形外科医として働かれていたと以前私は聞いています。同じく昭和大卒業の後輩の先生で日本鋼管病院勤務歴のある先生から以前お聞きしたお話ですが、「高須先生は日本鋼管病院時代、真面目で良い先生と評判は上々だったそうだよ。」とのことで、美容以外の一般医療をないがしろにしない、ポリシーは一貫しているのだな。と思いました。
封書の書面に「仏教を学び~僧侶の資格をとり」とあったのには一瞬驚きましたが、思えば9月の美容外科学会で蘇春堂形成外科の新富先生が「昨夜、高須先生と2つの学会の統合で話しましたが、(中略) 高須先生はこれからは『坊主』として生きると言われていましたよ。」と私に話して下さった時の疑問が解けました。
下に貼りました秋山真之中将も晩年は仏教を信仰するようになり、修羅場をくぐって来た人たちの中には宗教に目覚めるのかなと思います。
私なども患者さんに「医療行為とは先のハッキリしないものだから、ギリギリまでやって最後は神頼み、宗教に行き着くものですよ。」などと言ったりしますが、私はまだ修業が足りないせいか信仰までは至っていません。(これは余談です:続く。) 
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2011年12月21日, 1:46 AM
顎シリコンプロテーゼ術後2週間、口腔内抜糸で来院されたモニターさんですが、実は手術中の鏡で最初の確認時にはもっと変化の控えめなプロテーゼを入れていました。
しかし『もっと出したいです。』とのご希望をされ、新しいシリコンプロテーゼを削り、入れましたところ気に入って下さり、それで創を閉じました。
この方の術前カウンセリングの際に外人風の意向があるのは重々お聞きしていましたが、私の経験からして、ある程度のご年齢の方の場合、そうは言っても激変は望まれなかったりして、術中チェックを怠ると術後に、「もっと自然に・・・。」との話になって低いプロテーゼに入れ替えと言う事はありますので、まずは無難な変化のプロテーゼを入れてみたのですが、この方の場合は違ったのでした。
美容外科とは患者さんの願望を的確に掴むのが難しいものです。外科手術としては悪くなくても希望と形が違えば「失敗」等と言われもします。カウンセリングの際は精神科医のように相手の心を洞察し、手術となれば、こちらの感性を高めると言いますかと煌めかせるものと思いますが、そこに美容外科の醍醐味があるのだと思います。
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2011年12月4日, 2:38 AM
昨日、ボトックスが効きすぎて眉が下がって睨むようになった人などに、アセチルコリンの注射が、まあまあ効くと書きましたが、この効果は数日で消退してゆきます。しかし、なまじ筋肉が動き出したせいか、1週間くらいしても「何がしか回復の傾向が出てきたようです。」と言われます。それで2回目を打つのですが、また数日経って効果が消退して行くものの、やはりその後も「何か良くなっている。」と言われます。
私の経験的にはボトックスが効きすぎた人は放置で回復するまで待つよりも、アセチルコリンを断続的に打って加療した方が早く回復しているのは間違いない気がします。
美容外科学会でもそんな発表はないし、回復が早くなる事へのハッキリしたエビデンスもないのですが、麻酔科のペインクリニックや整形外科では椎間板ヘルニアへの神経根ブロックと称して麻酔液を神経根に透視下に造影で確認後に注射で打ちますと、麻酔液など3時間以内に効果を無くすものの、患者さんは翌日も翌々日も症状の明らかな改善をされているもので、椎間板ヘルニアへの神経根ブロックは間隔を空けて2、3回やるうちに内服薬でコントロールできる位の大幅な症状の改善を私も担当医として経験してきました。このアセチルコリンの注射も、それと通じるものと考えております。
医療においては実践医療に理論が後付けされてたことも多く、これもそういう位置付けになると思います。(なお写真は私の右手ですが、毎日の手術の際の消毒液での手洗いで手が荒れ気味です。)
2011年11月28日, 11:37 PM
11月20日のコンデンスリッチの講習で、韓国の李先生から唖然とする話を聞きました。
他人の毛を毛乳頭ごと引き抜き乾燥させ、自分の幹細胞に30分浸してから皮膚に植えれば他人の毛は拒絶反応で抜け落ちるが、毛の情報が幹細胞に伝わり、植えたところに自分の毛が生えてくるというのです。
にわかには信じ難い話です。現在、毛の源は毛乳頭にあるのでなく、もっと浅い層にある峡部毛鞘や膨大部(バルジ)にがあるという説が有力です。そのため植毛手術では引き抜いた毛でなく、毛の周辺組織を付けて植毛します。
ですから引き抜いた毛には峡部毛鞘や膨大部(バルジ)が付いてない以上、この話は無理そうな気がします。ところが韓国の先生は自分の左腕に生えている1本の毛が、それだと言います。
この話には多くの医師が呆気に取られた様子でしたが、フロアーから、他人の毛でも壊死する際にサイトカインを出して、そこから幹細胞が「毛」の情報を得るから他人の毛が脱落した後、自分の毛が生えるんです。とフォローがありました。
私には、それでもこの目でその医療の現場を見て結果を自ら検証を出来ない限り、なかなか信じられません。
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2011年11月26日, 9:33 PM
先程、フィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズで浅田真央ちゃんが優勝しました。よろけて手を付いたりしたのは残念でした。
私はフィギュアスケートは女子に限って時々観ています。新体操のようなもので美しいですね。
さて、いつも思うのは、あれじゃ“いつか腰痛になるだろう。”という事です。整形外科的には脊椎は軽度前屈(前かがみ)が一番負担が掛らないもので、お年寄りの歩容はそうですし、若い人でもぎっくり腰になれば、寝た状態でも横向きで軽く前かがみの姿勢を自然に取るものです。
脊椎の中の脊柱管(脊髄を囲んでいる内腔)は上から下まで連続でみる時、軽度前屈が一番広く、後屈で狭くなるのです。写真の浅田真央ちゃんの極度の脊椎の後屈は椎間板や椎間関節にかなりの負担が掛っているはずです。
さてネットで調べてみますと、「浅田真央、安藤美姫、中野友加里は腰痛を訴えている」とあります。プルシェンコもその様です。
『白鳥は優雅に見えても水面下では一生懸命水をかいている』こんなことわざを想います。
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2011年11月22日, 1:22 PM
昭和の時代は、形成外科と無縁な美容外科クリニックの方が多かったもので、当院の先代の安見正志先生も産婦人科出身でした。
先生の書架には大森清一先生の「形成外科学」などの形成外科医の著書もありましたが、「脂肪はDermal Fatでないと生着しない。」などとは昔から思っておられなかったそうで、何と昭和40年代から脂肪注入を行っていたのでした。
脂肪吸引が今の手術スタイルの原型で始まったのが1976年(フィッシャー:昭和51年)または1977年(フルニエ、イルーズ:昭和52年)と言われ、脂肪注入はその後に付随して行われていったのですが、安見先生は彼らより注入に関して先駆者だったのです。
ただ安見先生の脂肪注入は顔面注入として、下腹または大腿内側から脂肪を少量吸引→少量注入→期間を空けて再注入でカサを増すといったもので、具体的なテクニックとしては18ゲージのカテラン針を12または25ccの注射器と連結、エピネフリン入り局所麻酔剤を下腹または大腿内側の注射した部位に刺して注射器の内筒を引きつつ陰圧にして今で言うチューリップシリンジの感覚で吸引、シリンジ内がだいたい一杯になったら、注射器を立てておいて脂肪が分離したら、その脂肪部分だけ同じ注射器・同じ注射針で顔面の凹みに注入するといったものでした。
安見先生がそれを始めた昭和40年代に脂肪吸引や脂肪注入なる言葉は存在せず、安見先生の独自用語で「納脂」と呼んでいました。しかし残念なことに先生はこれを学会発表されませんでした。批判もあろうからそれが嫌だったと言われていました。ちょっと惜しいと事と思いました。(続く)
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2011年11月21日, 1:56 AM
昨日は脂肪注入の手技としてのコンデンスリッチファット(CRF)の講習に出ました。講習に出て感銘と同時に疑念を覚えた事があります。それは脂肪注入の脂肪は実は大半は壊死するのだが、同時に注入された幹細胞によって新しく脂肪が作られるので、脂肪注入の成果が得られているというものです。
この話は幹細胞による効果を強調しています。・・・『そうかも知れない。しかしそれほどでもないかも知れない。』思えば、脂肪を注射で注入しても生着すると認められてきたのが昭和61年頃からです。その3年くらい前から日本においては脂肪吸引が一部の美容外科クリニックにおいてまともに取り組み始めたというところでしたので、捨ててしまう位ならダメもとで入れてみるか?とやる医師が出て、その成果に気付いたと聞いています。
私が学生の頃に読んだ標準形成外科学や形成外科手術書には、脂肪はそれ単独では移植しても無理で、真皮とくっ付けて「Dermal Fat」として移植するなどと書いてありました。しかし後年、形成外科において、その概念が覆されたのです。(続く)
2011年11月3日, 2:35 AM
美容外科クリニックを構えていますと、連日のようにネット業者様から電話が架かります。くだらない提案が多い中で、「スマートフォンサイトを作るのが美容外科では急務ですよ。」と言ってくる業者様があり、最近は電車に乗っていると若い人は、もうガラケーよりスマホを持っている人の方が多い様に見えますので、『そうだな。』と思い発注をしていましたが、当院の専門サイト(鼻尖縮小とか全切開など)のスマホサイトは、ほぼ完成して昨日、ネット上にアップされました。
妙に凝っているわけでなくPCサイトの画像連用の単純明快なサイトですが、私はこれで良いと思っています。業者様の色々なオプションを付ければ付けるほど広告費が莫大になってしまいますから。
さて、スマホは常時接続の小さなパソコンに通話機能とカメラ機能が付いた非常に重宝なもので、もうガラケーからの乗り換えの流れに逆らえないと思います。しかし、大きく重い、片手入力がやり難い、タッチ入力は不慣れ、本体購入費・月額費が高い、バッテリーが持たない等で躊躇している人も若干はいると思います。しかし10年以上前にPCやインターネットが普及しだした時も「あんなもんは私は使えない」と言った人はたくさんいましたが、結局多くの人がそれなりに使ってます。スマホも、結局すぐに慣れるはずです。
携帯電話各社は、昨今はスマホを主軸に機種を展開しているので、もう時代の流れには逆らえないと感じます。(当院スマホサイトのトップページ)
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2011年10月25日, 9:17 PM
私は形成外科学会名簿(昭和63年版)は、今と異なり自宅の電話番号まで載るような個人情報満載でよく読んでおり、各大学の教授・助教授、美容外科学会に出るような基幹病院部長の出身校・卒業年度・出身医局はだいたい憶えていました。さて大森喜太郎先生は昭和43年慈恵医大卒業、警察病院入職だそうですが この昭和43年に片山整形外科で有名だった慈恵医大整形外科の教授選がありました。そこでギリギリで丸毛英二助教授が敗れたものの同年、形成外科を創って初代教授になり、後に慈恵医大病院の病院長をされたり、日本形成外科学会会長も歴任された訳ですが、実は私は丸毛先生とは、先生のお部屋で一度面談したことがあります。
体格の良い紳士と言った感じで、徳永先生が「公正な人」と評していましたが、そういう雰囲気がありました。この高名な先生と1対1でお話しできた事で、私は『整形外科の助教授から形成外科の初代教授、形成外科学会会長になった人がいる。』という強いインパクトを得ました。
私はJSAPS(形成系)の方の美容外科学会で10年余り毎年、恥ずかしげもなく平気で毎年発表している力の源泉の1つにに、丸毛先生にお会い出来た事があると言えばあります。
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2011年10月24日, 8:08 PM
平成6年頃は、形成外科の医療機関で、たとえ標榜はしていても美容外科の手術をどんどんやるところなんてありませんでした(その事情は今でも大きくは変わらないはずです)。それであの当時は、自分の状況からすれば今さら大学の形成外科の再入局は賢明でないと判断していましたが、ある日、日本の形成外科のメッカである東京警察病院は、クリニカ市ヶ谷という美容外科クリニックと提携していて警病の形成外科医はクリニカに行って美容外科手術を行っているという事を聞き、その上、東京警察病院が医師は公募しているとも知り、「まさに台風の目、もしくは灯台下暗しで気が付かなかった。入職2年くらい冷や飯を食らっても勤務に継続性があるから7,8年居るとしても初期の奴隷奉公も無駄にならないか?」と思ました。師匠にお尋ねしても「警病を忘れてた!ああ良いかも!」と言って下さいました。しかし何せ本当の事情はよく分かりませんから東京警察病院の大森喜太郎部長と入職前提で謁見出来ないものか考えましたが、変なアプローチでは一蹴されると思い、荻野先生と、虎ノ門の南條先生と杏林の尾郷にお願いして、大森先生に謁見の機会を与えて下さるよう根回して頂きました。私からお手紙を書いた際も、切手を貼って投函するより貼らずに警病まで直接持参し、守衛さんか受付に「大森先生にお渡し下さい。」という方が切手がない分、直接来院した熱意が分かって良いか。と思い、茅ヶ崎から千代田区富士見まで出向きました。しかし結局は画像のようなお返事が届きました。
「茅ヶ崎徳洲会総合病院 整形外科
木 村 知 史 先生
御机下
~~先生に関しましては南條先生ならびに尾郷先生などより御推挙賜りまして~~~。」と大変丁寧な書き方で始まるお手紙でしたが、結局入職に関して、
「~~なかなか思うにまかせません。」という表現で断られました。
突然の申し出ですから成功率は低いか?とも思っていましたが、やはりショックでした。しかし断れらたとは言え、『まあ、仕方ないや。昭和40年代に外科系で形成外科を勉強したくなった先生方が警病の門を叩いた頃とは全然状況が違うんだ。形成外科のメッカから断られた分、踏ん切りも付くか。」と、気を取り直して、ここで最終的に形成外科の経歴を経ずに整形外科出身の美容外科医師として頑張る決意を固めました。
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2011年10月23日, 3:36 PM
ただそれから4年経ちバリバリの整形外科医として日々手術をするのが生きがいとなっていた私にとって、今さらどこかの形成外科の医局に入り直して、特に最初の1年を大学病院で末端の医局員として先輩医局員の手術を指をくわえて見て過ごすだけの生活は耐え難いものでした。そういう形成外科の見学は、主に久留米大学在籍時に同大形成外科や新日鉄八幡製鉄所病院(碓井部長は整形外科医でもあったから頼みました)、小倉記念病院(高柳先生退職直後で、単に門司労災に近いから大塚部長に頼んで見せて頂いた)などでひたすら平身低頭でやってきたのですが、それは麻酔を掛けながら見せてもらう、外勤日だから出掛けられる。日曜だから形成外科病棟の包交に立ち会える。というものでした。ですが齢34歳にもなって後に続かない形で2年間、認定病院の奴隷常勤医となった後に、教育関連病院の白壁美容外科に勤められたら5年以上いる・・・等という発想も最初の2年間と後への連続性がないから無駄に近くなると判断したのでした。(バリバリ伝説とは昔、少年マガジンに連載された「しげの秀一」氏の出世作です。続く)
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2011年10月21日, 2:21 AM
形成外科専門医の取得は学会に6年以上在籍のうち4年以上、形成外科認定施設に居る必要があるのですが、うち2年間は教育関連施設でも良いとされています。私は会員名簿の巻末に載っている医療機関ならびに形成外科外科学会事務局に名簿発行以降に認可された施設をFAXしてもらい欄外に貼り、考えていたことがありました。平成2年頃です。
形成外科は結局はどこかの医局に所属しなければ認定医(当時の呼称)が取れないから、仕方がないから、どこかの医局に入る。そして2年間の奴隷奉公に耐えた後、辞めて美容外科が主体の教育関連施設に勤めるとするか?。しかしそういう施設は北海道~九州まで見ても3つしかありませんでした。
①札幌の蘇春堂形成外科、②大阪の白壁美容外科、③福岡の徳永美容形成外科・・・③の徳永先生は昭和の形成外科と無関係な整形外科医の私にご指導して下さった有り難い先生ですが、絶対に形成外科3年目は受け入れないと観ていました。それで②の白壁美容外科に平成2年に表敬訪問し、その辺を打診しました。白壁武博先生は誠に懐の深い、人を魅了してやまない方で「雇うか雇わないは、要は人間性や。」と言われ、「整形外科と麻酔の経歴でも雇ってあげますし、形成外科を2年やった上で来てくれたら、それはそれで良い」と言われ、私は『イケる!』と思いました。(続く)
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2011年10月19日, 7:52 PM
聖隷浜松病院の中村部長から「4年だけでは出来ない話です。」と断られましたが、こっちだって何も4年で辞めたい訳はないのです。ですが当時(平成6年)は市中病院で形成外科を10年やったところで、すぐ美容外科が出来る訳でもないと見定めたつもりでした。それは平成元年秋~3年3月まで徳永美容形成外科クリニックで見聞きしたこととで判断したのです。美容外科はやはり美容外科クリニックに勤めたからこそ美容特有の考え、手技が得られるものと確信していました。だから開業できるかも知れないことを念頭に置けば40台前半までに美容外科を一通りやれる様になっておく必要があり、その前に形成外科医として勤務したところで4年がタイムリミットと思っていました。荻野先生に相談した時、私は34歳になっていました。「少年老い易く学成り難し」で残された時間は限られてます。自分が20歳で医学部に行った頃は、医師としてのスタートが2年遅れることに余り気を取られませんでしたが、この頃は、2年という年月がもったいなかったと悔いた記憶があります。
医学部は3浪以上して、または他学部卒業、社会人を経験などして入学する人が決して珍しくないので、私が医師免許を得た昭和62年の5月の新聞では、医師国家試験合格者の平均年齢は27.●歳で、2年遅れでもまだ若いとなったのですが、医師免許を得ることはゴールではなく始まりですから、医師としてのやるべきことがテンコ盛りである以上、1年でも早く医師としてのスタートを切った方が良いです。
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2011年10月14日, 9:29 PM
それから何カ月かして茅ヶ崎徳洲会整形外科から大学病院の形成外科に入局せずじて形成外科医として最初から戦力として勤められる病院はないだろうか?と考える時、荻野先生に相談してみました。条件は①症例が多くて、②部長に高い技術力があり、③最初から私を戦力として使ってくれそう。④給料は安くて良い(仕方ない)。・・・そんな病院に勤める道があるでしょうか?とお尋ねしますと、荻野先生は「聖隷浜松の中村先生に頼んであげよう。」と言われました。私は聖隷浜松が700床は超える大病院、地域の中核病院であることは知っていましたから驚愕し、そんな病院に勤められるなら願ったり叶ったり、私の皮算用としても浜松なら新幹線を使って名古屋駅前の師匠のクリニック(名古屋形成クリニック)にも、小田原の慈恵系列の整形外科病院にも土曜の14時から勉強に行くことが続けられるか!?と興奮してしまいました。
そして荻野先生を通した上で中村雄幸部長とお話しましたが、やはり嘘は付けないので「末は美容外科をやります。その前に形成外科に4年間勤めたいのです(あと4年間で専門医取得)。」と言いますと、「4年だけでは医局人事に逆らって無理に入れるのは出来ない話です。」と断られました。
ガッカリしましたが、仕方がないとも思いました。形成外科認定施設はそれだけ大学病院の系列に組み込まれているのです。
なお、聖隷浜松の前か後かは忘れましたが、荻野先生は、水道橋にある厚生年金病院の中村純二形成外科部長にも頼んで下さったそうですが、こちらは最初から「定員一杯。」と断られたそうでした。(続く)
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2011年10月6日, 2:35 AM
茅ヶ崎徳洲会総合病院の整形外科は苛烈な勤務で、大腿・下腿・上腕の骨折のキュンチャー横留めや股関節人工骨頭置換などは、やり過ぎる位やれましたので、その分野に関しては、あしたのジョー的に「燃えたよ…真っ白に…燃え尽きたよ…」と思う様になりました。頚部/顆部/関節内骨折、関節鏡視下手術、腱/靭帯縫合・再建もどんどん行っていましたが、人工骨頭置換は梨状筋を強力に引きつつ切らずに行っていましたから、術後の脱臼の心配がなく、術後早期から下肢の運動をさせ、早ければ術後1週間で退院させていましたので最高水準だったと思います。そして整形外科専門医を取得し病院からは医長の任命を受け、久留米大学時代の発想ですと次は親の跡継ぎ開業を考えるのでしょうが、後に私はずっと心に秘めて来た「次は美容外科」を切実に考えるようになりました。
これに拍車が掛ったのは全くの奇遇ですが、茅ヶ崎徳洲会総合病院の整形外科は形成外科と同じ病棟で、医長に有名な銀座美容外科の森川昭彦先生の跡継ぎの森川一彦先生が居らしたこともあります。森川先生とは私が久留米大学在籍時に形成外科学会九州地方会に出席した時、北里大学形成外科の出向先に熊本の西日本病院があり、ここに森川先生もご出向されていて学会にご出席だったのですが、懇親会で私は「お父様は、あの有名な銀座整形の先生ですか!」等と談笑したのが平成2年だったと記憶します。しかしまさか後年に同じ病棟で働くことになるとは予想もしませんでした。
森川先生と部下の山本先生とは親しくさせて頂き、時には1人の患者さんを形成外科と組んで私と部下で一緒に手術室に入る事もありました。そういうこともあって「形成外科って良いな。やりがい感じそうだな。」と益々思う様になりました。
ですから茅ヶ崎にいる時、いつかは美容外科だが、その前に形成外科をやるという気持ちが強くなりました。(続く)
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2011年10月5日, 12:55 AM
耳の論文の校正で荻野洋一先生の元に伺った際、小耳症の肋軟骨での再建が近日中に入っているのをお聞きした時、茅ヶ崎の整形外科から時間調整して、荻野先生の執刀時に上白根病院へ出向き手術の助手に入らせて頂きました。小耳症の肋軟骨での形成再建外科自体は久留米大学麻酔科で麻酔を掛けながら田井教授の手術を至近距離で穴が開くほど見学させて頂きましたが、その手術の助手に付いたのは後にも先にもこの時だけです。軟骨の採取自体は、私が骨移植時に腸骨片を何度も取って来た事と比べて難しい事に見えませんでしたが、耳のフレームに合う様に全く無駄の無い手さばきで軟骨を採取されるお姿は流石は日本の小耳症再建:軟骨フレームの嚆矢と感嘆したものでした。耳作りのために皮下に入れるのも巧みの技と写り荻野先生が「神」に見えました。(尤も後年、永田先生の存在を知り、神の上にも神がいるものだと思いました。) さて整形外科は運動器外科として、その機能再建を行う尊い診療科と思っていましたが、形態再建も又、尊いと改めて思いましたし、こういう仕事もしたいと思いました。その日は深々とお礼を述べては茅ヶ崎に戻ったのを記憶しています。
こういう事で荻野先生も多少、私に目をかけて下さったのだと思います。それで後に繋がったのです。(続く)
【今、私は鼻中隔延長で肋軟骨をしばしば使いますが、採取時に、ふっと荻野先生を思い出します。論文校正願いの初対面時に家内を連れて行ったせいか、お手紙のやりとりの際は荻野先生は毎回締め括りで「奥様に宜しく。」と書かれていましたが、それは先生のお人柄を偲ばせるものと思いました。】
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2011年10月4日, 2:26 AM
私が茅ヶ崎徳洲会整形外科在職中、乳児の折れ耳(変型耳)の矯正に整形外科で使っていた熱可塑性材料を使って治した事があります。折れ耳とは耳の上半分が頭を下げるような格好をしており、新生児や乳児期は矯正器具をハメて治療するのが論文にあるのですが、ゼムクリップを曲げたようなものを使うので皮膚の糜爛(褥瘡)を作ったり外れやすかったりします。私はその患者を見た際、整形外科で使う熱可塑性スプリントをヒモ状にして矯正器具にするのがパッと浮かびました。それで形成外科の森川先生にも了承を得た上で治療しました。これを平成6年の形成外科関東地方会で発表したところ、克誠堂出版から月刊誌「形成外科」の紙面に載せたいのでと論文の提出依頼が来ました。さて、どうしよう?耳の再建は久留米大学麻酔科在職中に形成外科の田井良明教授の素晴らしい手術をみせて頂きましたが、田井教授は昔、聖マリアンナ医大で荻野洋一教授の下に居たと聞いておりました。荻野教授のことを調べるとTanzerの元に留学し耳の再建を覚えて来た方で、当時、上白根病院に居らしていると分かりましたので、論文の校正のために訪問させて頂きました。
荻野先生は、「熱可塑性材料をひも状にして使うとは画期的!感心した。」「君も仲間だ。」と言って下さり論文の下書きの校正をして下さいました。誠にありがたかったです。そしてこれが結果的に後の「お願い」へ繋がっていくのでした。(続く)
【荻野先生は、思い出せば本当に優しく温厚な先生でした。新潟大学耳鼻科の助教授だった時、東洋医大耳鼻科の教授へとの話が来て(東洋医大とは今の聖マリアンナ医大)、新潟大の教授が「教授というものは成れる時に成っておきなさい。と言われ成ったんですよ。そして2年後に形成外科の初代教授になりました。」と言われていました。後々ですが私が「美容外科」をやりたいとお話しますと案の定、美容外科そのものに強く反対され、何故か荻野先生のご自宅に呼び出され説教を受ける羽目になりました。ですがこれも人徳がなせるもので、私のように聖マリと何の関係もない医者にご心配とご配慮(また書きます)して下さったことには深く感謝しております。のちに日本形成外科学会雑誌で荻野先生が故人となられたのを知った時、ご冥福をお祈りしたものです。】
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2011年10月3日, 1:43 AM
昭和62年、私は大学病院の医局制度が戦前の陸軍並みに封建的なところが多い事を医師になった後で肌身で感じました。医局カンファランス室に教授が入って来ると、医局員は総立ちになり、奥の教授の椅子に教授が座るまで皆が直立不動で立っておかなければなりません。教授が椅子に腰かけて、やっと医局員も椅子に再び腰かけます。また若い医局員同士でも入局年が1年でも違えば、その先輩後輩の上下関係は厳しく、黒はともかく灰色を見せられて「白だよな?」と問い詰められれば「はっ、白いように見えます。」と答えざるを得ない雰囲気がありました。入局1,2年目医師が夜に医局にいた時、先輩医師が入って来れば「お疲れ様です。お茶を入れましょうか。」と言ってお茶くみをして当たり前でした。私も入局2年目までは皆と同じく度々お茶くみをしました。これらは医師免許取得年より、その医局への入局年の方が優先しました。
また当直明けの朝は教授が出勤する時刻の前に当直医は教授室の入口前に立っておき、教授が来られたら、当直時の夜間の状況を硬直した姿勢で報告するのを日課にしている某医局もありました。
そんな封建体質でも臨床の腕を磨けるなら幾らでも耐えられます。しかし大学医学部とは「研究・教育・臨床」が三本柱で、講師クラス以上の先生方の論文発表のためのデータ探しに、入局1年目医師はカルテ引きと称し過去10年以上の全てのカルテから必要データを抽出する作業を夜な夜な行わされたり、教授・助教授の学生への講義の際は、映写機係として随行したり、そして本丸の臨床も市中病院より病床数に比して教授~入局1年目医員まで合わせれば、医師数は明らかに多いですから、入局5年目程度では、とても執刀のチャンスなど巡ってきません。21世紀の今はどうだか分かりませんが、20年前なら上述の事は全国的に整形外科では当たり前だったと思います。
ですから昨日書きました~各大学医局長に形成転科の相談をすれば「何科を何年やろうと実力的には3年目、医局員としては1年目扱いだから、オペ患者をストレッチャーで運ぶ事など、医局1年生として謙虚に振る舞う事。何?美容は入局10年はさせない。」~と聞かされた時は、形成外科でもやっぱり同じか!と落胆しました。
さて末は医長として奮闘した茅ヶ崎徳洲会総合病院整形外科では、連日のように押し寄せる外傷患者で創傷処置や骨切り金属留め等の整形外科手術を行うことが麻薬漬けのようになっており、私は人を切らないと済まない「人斬り抜刀斎」になっていました。だから形成外科に行きたいと思っても最初から戦場みたいなところに戦力として投入される形でないと我慢できないのでした。(続く)
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2011年10月2日, 1:30 AM
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左上画像は私の愛読書だったとも言えた日本形成外科学会の会員名簿(1988年版)です。今と違って個人情報が満載で、あの先生はどの大学を何年度に卒業しどこの医局出身というのが明記され、自宅の住所・電話番号まで載っている状態でした。そして当時、形成外科九州地方会やJSAPSの学会で『これは!』と思える発表している先生はこの名簿と照らし合わせラインマーカーを引き憶えていた次第です。
JSAS(十仁系)の美容外科学会の場合も同様に照らし合わせていましたが、会員名簿に名が載っていたり、載っていなかったりという状況でした。また画像右上は巻末に載った形成外科認定医一覧です。これは後年の名簿の記載と異なり、昭和53年から認定年度順に載っていました。右下茶褐色の色の部分は日本形成外科学会事務局にお願いしFAXで送って頂いた1988年以降に認定施設になった病院名を貼り付けていたものです。
さて、これを踏まえ一昨日の美容外科学会で発言しました事は下記です。
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①私が進路を決める昭和61年当時は形成外科のトレーニングを受けて美容外科で開業していた医師の方が少なかった。産婦人科出身(根岸、鴛海、船津、安見・・・)でさえ多かった。
②昭和50年代半ば迄に認定にされた形成外科認定医は形成外科医指導の元での研修が4年未満は実は少なくない。ゼロでさえ多くいる(つまり我流)。
③平成になり各大学医局長に形成転科の相談をすれば「何科を何年やろうと実力的には3年目、医局員としては1年目扱いだから、オペ患者をストレッチャーで運ぶ事など、医局1年生として謙虚に振る舞う事。何?美容は入局10年はさせない。」←こんな感じであり、嘗て昭和51年転科・翌年形成外科講師などがあった時代とは違っていたと悟った。
④名簿記載以外に後年に認定施設になった病院も含め、全国の病院を調べたが、形成外科認定施設は殆ど大学の傘下だった。つまり個人がフリーで勤められず大学医局入局しないと無理か。これでは徳洲会病院(湘南鎌倉・茅ヶ崎)的に最初からバリバリやれる望みは薄い。整形外科ではフリーで勤められ、立派な指導医の元に腕を磨け専門医の資格も取れる病院は少なくないので口惜しい。
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なお②に関してですが、形成外科の黎明期の頃、まず整形外科や耳鼻咽喉科、外科などから始めて、途中で形成外科を学びに行き、3年以内にその施設を離れて自分がチーフとしてもしくは開業して形成外科・美容外科を続けている先生は、昭和51年以降に卒後、形成外科に入局した先生たちとは区別して考えなくて良いのか?と思ってしまいます。
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2011年10月1日, 2:18 AM
昨日、無事に異色の演題「2つの美容外科学会に20年以上ほぼ毎回参加した者の個人的見解」の発表が終わりました。その後、新富先生が席を移って私の隣に座られ「伸び伸びと、よくぞ良い意見を言ってくました!」と言われ握手の手を差し伸べられました。これには私は大変嬉しく思いました。JSAPSの重鎮の新富先生が昨年の学会時に、若輩の私に、気さくで且つ丁寧な感じで「木村先生にも何か良い考えがあったら宜しく。」と言って下さったことは忘れもしません。今回のことはそれに対する御礼です。20余年の両学会の参加で達観していたことから真剣に導き出して語らせて頂いたのです。
さて内容の骨子は★★★2つの学会を統一するのでなく、 2つの学会とも本来の名称にして、新生の1つの「日本美容外科学会」の下に置く★★★
つまり、JSASは、元々の名称の日本美容整形学会に戻し、JSAPSは正式な日本語訳の日本美容形成外科学会にする。それぞれ「整形」と「形成」の名称を表記したかったのですから、両者とも同時変更なら反対意見は出ないと思います。そして両学会を束ねる新生の美容外科学会を創る。これは丁度、企業が合併のような形を取る時、○○ホールディングスと名乗り、元々の会社の自立性は保ちつつも、共通する問題に対しては新会社が全体を束ねて動く。このような体制が一番良いと考えるのです。
7月20日のブログで『55年体制と掛けてHand Surgery(手外科)と説く』と書きましたが、これは1955年は、強大化してきた社会党に対抗するため自由党と日本民主党が合併して自由民主党になったのですが、その後も相変わらず元自由党員と元日本民主党員では融和できず、共通する危機に対して新生の自由民主党に束ねられて動いただけでした。また手外科学会のHPをみればその専門医像として、「整形外科および形成外科専門医であり」との表記があり、私はここから掛け言葉自体は強引ですが、標榜科の「美容外科」を名乗る学会が2つに別れているために力を結集できず他団体や外国に後れが生じてきている現状なら、本来の付けたかった学会名の「整形」や「形成」の付く表記に変え、新生の美容外科学会の中に2つを入れれば嘗ての自由民主党のように何とか諸問題がクリア出来ると思ったのです。
さて発表の最後に締めくくった言葉ですが、「今の若いドクターの中には、学生や研修医の頃、あまり形成外科・美容外科に接するチャンスがないままに、外科系他科をやっていて、後で、『僕は美容外科をやりたいんだ!』と気付く人は必ず生じるでしょうから、その人たちを締め出すのは、辛くあります。美容外科とは結局は目の前の女性を綺麗にしたいという気持がどれだけ強いかで多くが決まると思いますから、どういう形にせよ、1つの美容外科学会に収束した後、外科系他科出身で真面目に美容外科をやりたいと思うようになった医師にも門戸を開いてあげられるよう切に望みます。」そう言いました。
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