Archive for the ‘ドクター’ Category.

ネットで医師暴走、医療被害者に暴言・中傷とあるが「悲鳴」か?

 ニュースでは「医療事故の被害者や支援者への個人攻撃、品位のない中傷、この数年ネット上で発信する医師たちの“暴走”が目立ち、遺族が精神的な二次被害を受ける例も相次いでいる。」とありますが、ニュースに書かれた福島県立大野病院の出産事故、杏林大病院の割りばし事故が刑事事件で起訴(通常ほぼ100%有罪の判決に至る)されたのに無罪が確定したのは、この数年の医師・病院関係者たちの過重労働&過大要求への“悲鳴”が特に救急車受け入れ拒否・産院廃止という形で世に伝えられたからです。以前は医師から観て善管注意義務違反にならなくとも有罪になっていました。修羅場での悲鳴が今、ネット上で書かれるようになったと私は解釈しています。
 医師は育ちの良いボンボンで鳩山首相のような性格の人が多いですから、ネットと言えど暴言・中傷など好んで書くような人は稀と思います。しかしヘトヘトになるまで働かされて、なお且つ無理な要求を突きつけられるから爆発する医師も出てくるのだと思います。
 尤も私は美容外科個人院の立場ですから、一日に少数の患者さんを診るだけですみますし時間が掛けられますから信頼関係が築け、心の平安を保ち続け診療が続けられるのはありがたい事と思っています。
 

若手医師の美容外科転科の相談(眼科→美容外科)

 昨日若手眼科医が美容外科の転科を考えているというので、来院され相談に乗りました。聞けば私の本のあとがきに感動したから来ましたといわれました。さて、「動機は?」と聞けば「母が美容皮膚科医をやっていたので以前から美容は身近に感じていました。」と言います。私(木村)に相談に来る前に母と一緒にやっていた美容外科医にも相談に行ったとも言うので、私は彼は本気なんだろうと思い、「4年間形成に行きますか?」と問いかけましたが、返事は芳しくありませんでした。
 彼は私立文系の偏差値最高の大学・学部を1年も遅れずに卒業して大手銀行に勤めるエリートコースを歩んでいましたが、途中で医学部に行きたくなり、新設私立医大に入り直した経歴でした。彼は「父の企業家としてのDNAが僕を最初は文系に向かわせ、途中から母の医師としてのDNAが医学部に向かわせたのです。」等と言いました。しかしTVドラマならともかく私にはよく分らない発言でした。
 そして彼はいつか海外に行って、その国の発展に寄与する仕事に就くことも考えているし、医療は今後予防医学に重点をおくべきと、その活動をもう行っており、3月は新宿区から許可を取りAlta横の路上を借り切り予防医療のイベントを開きます。などと言っていました。
 私はそれを聞いて、先生は医療を事業として取り組むのと、患者への診療行為として取り組むのの、どちらに軸足を置きたいんですか?と聞けば、事業としての方だと思います。と答えました。
 私は「それなら形成外科などテクニックを磨く修練の時期は割愛し、大手美容外科にいきなり飛び込み2年居て、いつかは眼科・美容外科で新たな医療事業を始める方が良いんじゃないですか?自分は統括する立場で腕の良い医者を雇うような形で。」などと言いました。
 ・・・たぶん彼はいつかそうなる予感を持ちました。私とは全く異なるタイプの、新しい医療ビジネスを構築する企業家の若き日に遭遇した気がしました。
 

美容外科を目指す医学生(女性)からの相談

 私がブログにこんな事を書いたので、先日進路に迷っている医学部生が来院し相談に乗りました。彼女の悩みは「形成の入局を考えて医局の意向を聞いたら、卒後7年間は妊娠するな!と言われました。7年は長いです。」・・・医局長って、そこまで明言するんですか!と私は呆れました。それで警察病院で10年形成をやって今、大手美容外科本院の院長をしている某先生の言葉を拝借して「美容外科の手術で形成やってて役に立ったなという手術は100に1つもないよ。」と言い、次は私の言葉として「大学の形成の教授かそれに近い先生が学生に、美容外科をやるんなら形成外科をやってないとモノにならないって言うんだろうけど、それは言い過ぎ!結局は目の前の女性を綺麗にしてあげたいという気持ちの強さの有無、あとは経験とセンス。外科系の基礎はあった方が良いが、それなら私が進路指導を受けたようにハンド・マイクロ志向でやっていれば手術・外傷処置の件数が莫大な整形外科に属するのも一つの道と思う。でも放射線科半年の経歴の後、大手美容外科就職の先生で飛びぬけて上手い先生もいるから、やはり心掛けが一番大事。」と話しました。
 じゃあ具体的に彼女にどう薦めたかと言うと形成の入局です。続けてこう話しました。「私が卒業する頃の昭和60年代は大学の形成外科の多くが美容を毛嫌いしていたから、形成外科学会会長に選出されるには美容外科学会に入会していないことが問われる状況だった。しかし平成の今なら多くの形成外科の医局は美容外科を志しますと言っても理解してくれようから、貴女には形成外科の入局を薦めます。但し初期研修では出来るだけ長く麻酔科研修を受ける事。美容外科クリニック側では麻酔のキャリアを意外なほどに必要とします。」こんな風に話しました。
 この人は私のこんな記述も読んでくれていて、「御母さんが子育てを手伝ってくれるなら、キャリアを曲がりなりにも継続して行けようから、形成入局で良いです。しかし美容外科志向だけど、妊娠出産育児で何年かリタイアが前提なら、麻酔科入局で標榜医は取ってリタイア、後年の復帰は美容外科クリニックに麻酔科標榜医(兼)美容外科見習で勤め、埋没法とプロテーゼ物が主体の技術には限界のある美容整形医として生きる道はあります。でも私はそれも良いと思います。技術レベルの高い手術より、定型的で簡単な手術の方が患者さんを幸せにすることが多いからです。そして『自分は外科のキャリアがないから、難しいのは他医に紹介だけど、よくある手術では1流を目指します』と精進すれば、本当にモノにできます。手術項目がやや制限されても、患者さんを綺麗にして上げたいという熱意は遂げられます。」こんな話をしました。

徳永先生(美容外科で決断)

 平成元年、美容外科天神の長谷川院長はスポンサーの人たちと組んで全国展開し福岡院は留守ばかりになり、私は非常勤勤務を辞めました。
 それで福岡で一番の技術力と知った徳永美容形成外科の徳永慎介先生の門を叩きましたが、すぐ断られました。当然とは思いました。でも諦めきれないので、長い長い手紙を便箋11枚で漫画のイラストまで添えて送りましたら、後日お電話が架かり「熱心なようだから来て良いですよ。」と言われました。
 徳永先生は元昭和大学形成外科助教授で、クリニックには同じく元昭和大学形成外科助教授の見寺先生も居られ、また非常勤で昭和大学形成外科の角谷助教授、近藤教授、また帝京大形成外科の一ノ瀬助教授が来られ、当時、姪浜クリニックという本格手術を行う分院で難易度の高い手術が次々に行われており私は圧倒されました。韓国の大学教授を呼んでは、手術台並列で徳永先生とフェイスリフト手術で競い合っていた日もありました。
 私はここに1年7ヶ月、月4~6回くらい通わせて頂き、技術的に多くの事を学びましたが、同時に『美容外科の開業医がここまで立派なことができるなんて思いもよらなかった。だから美容外科をやるというのをそれほど卑屈に思う事もないんだ。』と実感しました。また徳永先生は患者さんの立場で医療をやっている先生で、金儲け優先の同業医師とは別格とも悟りました。それで今まで私にとって『やりたい、やりたい』と魅かれるくせに倫理的にどうも踏ん切りがつかなかった美容外科でしたが、徳永先生を目標とすることで美容外科を人生の目的にすることを決断しました。医師4年目のことです。
 翌年私は大学の整形外科の医局を辞め、関東に身を移して徳洲会系病院を勤め上げた後、大手美容外科に勤務し、縁あってヤスミクリニックを継承しましたが、そこに至るまで徳永先生に教えを乞うた日々から約12年かかりました。辛い事も多々ありましたが、美容外科を極めるという気持ちを保ち得た事は徳永先生のおかげと深謝しております。

長谷川先生(埋没と脱毛)

 江崎クリニックは遠かったのと、ご専門の禿手術よりは、私は目や鼻の手術の方が遙かに関心がありましたので、常勤の大学病院の休みの日は昭和63年2月から福岡の「美容外科天神」に通い始めました。見学だけだった江崎クリニックと違い、埋没法くらいはやりたくて仕方がなかったので、そこの院長、長谷川先生に「タダで良いから勤めさせて下さい。」と言いました。研修医1年目の終りでしたから「タダで・・・」と言わなければ断られるに決まってると思ったのです。
 非常勤で勤めた美容外科天神でもしばらくは見学か助手が続きましたがその年、研修医2年めの6月か7月頃、「木村先生もそろそろ埋没法はできるんじゃないかな。」と言われ埋没法のデビューをしました。私の第1例目と2例目の患者さんの場合、長谷川院長が最初から最後まで監督していました。私のはこのチャンスをモノにすれば道が開けると凄い気迫で臨んだ記憶があります。そして2人とも上手く仕上がり長谷川先生の了解も取れ、3例目の人から埋没法は任されました。と言っても長谷川院長は隣でカウンセリング等されていて直ぐ来れる状態でしたし、私の埋没法術後は必ずチェックされましたから、今から考えても長谷川院長は真面目だったと思います。
 その後の私は土曜の例えば15時に美容外科天神で埋没法があるなど分かっていた時は、常勤の門司労災病院が13時上がりが建前でしたから、13時過ぎに理由をつけて上がり、高速道路をフルスピードで走って美容外科天神に着いては埋没法をやれせてもらっていました。あの頃は無給なのに埋没法を行う時、毎回ワクワクと言うか感動していました。
 長谷川先生には同年5月に日本美容外科学会に連れて行ってもらい、11月には私が演者で美容外科天神で行われていた「脱毛」の学会発表もさせて頂きました。現在の光脱毛の先駆けと言えました。楽しい思い出が一杯あり、今も長谷川先生には感謝しております。

江崎先生(進路指導)

江崎

 原病院がダメになりましたが、中島助教授は「美容外科なんて社会の裏街道歩いてきた奴がやるものだ!」と酷く毛嫌いしていましたから入局出来ないし、さてどうしようと、郷里の先輩とも言える美容外科学会(形成外科系)の理事の江崎先生に勇気を持って電話を掛けましたら、すごく親身になって話を聞いて下さいました。
 そして答えが「美容外科をやるなら整形外科で始めた方が良い。」でした。(以下旧ブログコピペ∮)
∮「将来美容外科で開業するつもりなら、麻酔と救急を修めておかないと危ない。手術は局所麻酔であっても患者によってはアナフィラキシーショックなどで心臓停止を起こす場合もあり、その時、医者はパニックに陥らず冷静にテキパキ対処できるかが問われる。開業医は人を殺したら終わり。手術テクニックだけ身に付いても麻酔と救急の不安があれば美容外科開業後の手術領域は侵襲の軽微なものに狭められてしまう。」
 「そのため卒後は美容外科に通じるテクニック(手)を身につけつつ麻酔や救急にも深く入り込むため整形外科入局の方が良い。整形外科は形成外科のテクニックを含むものだし、整形外科の症例は膨大だから昼も夜も手術や外傷処置ができますよ。」
 とのご指南を受けたのです。今思えば、先生のご長男は当時慈恵医大の学生で、あの大学の形成外科は整形外科の教授選で落選した助教授が、形成外科で教授になった経緯があった事など念頭にあったと思います。∮
 江崎先生ご自身も県立病院耳鼻科医長のご経歴の後での美容外科でしたし、また嘗て大分医大の学生だった加曾利先生に「だから大分分院に訪ねにきた彼にに同様に指導し、彼は卒業後、杏林大学の麻酔科に入局、同時に江崎クリニック東京本院に週1回パートで通った。麻酔科標榜医を取った後、形成に移り、江崎クリニックには引き続き来ている。」などと言われていました。そう言えば高須先生の後継ぎ、幹弥先生も麻酔科2年を経てから形成に入局されています。
 江崎クリニックには私が医師1年目に計10回くらい見学させて頂きました。久留米⇔大分、日帰り往復6時間でよく通ったと思います。
 

 

上先生(最長の師匠)

形成外科学会雑誌と名古屋形成クリニック 中島助教授が「(美容外科の見学をしたければ)上先生のところに行きなさい。」と言われ、医学部5年の時、原病院および系列のジュノクリニックに見学に行き、上敏明先生にお会いしました。ただ実は私は医学部2年の頃から、上先生を知っていました。なぜかと言いますと母校の形成は当時、大学に中島先生と上先生の2人しか形成外科医は居らず判別できたからです。
 上先生から見せて頂いた最初の手術がabbe法で、その再建法に何かもう感動してしました!また上先生は気さくで良い先生で、何回かお会いするうち師匠として仰ぎ卒後は弟子になろうと思いました。上先生の方から「そのうち原病院が形成外科認定施設になりそうだから、君も卒業したら直接、僕の下に来ないか。外科系研修は保健衛生の第2病院でやれば良いよ。その方が最短コースだ。」と言われ、数日悩みましたが私は「分りました。先生に下駄を預ける気で頑張らせて頂きます。」と決意を述べたものでした。しかし卒業前の2月に、何と、原病院は形成外科認定施設の申請に許可が下りなかったのでした。美容外科の比率が多すぎるという理由でした。その後紆余曲折があり、私は整形外科入局で将来美容外科をやる選択となりました。
 それでも上先生とはずっと縁がきれず、日本形成外科学会雑誌の送付先は上先生の名古屋形成クリニックで続いています。

素敵な変身の本(憧れ)

素敵な変身の本 「素敵な変身の本」とは高須先生が昭和56年に出された本ですが(画像がないので時期的に大きく違わない著書を挙げます)、これを医学部生だった私は何回も読んでいました。私の大学は愛知県でしたから高須クリニックの宣伝は再三見聞きしましたし、地理的に高須病院にもかなり近い場所だったので、医学部入学当初から高須先生のことは意識していました。
「素敵な変身の本」を何回も読んだりして医学部の4年の頃には、将来、美容外科をやる志がだいたい固まってきました。5年の時は病院実習だったので、夏休みなどダレるのが嫌で、整形外科と形成外科の手術の助手(鈎引き)に入っていたので、形成の中島助教授(後に教授、今は慶応の教授)に「高須クリニックに見学に行けないものでしょうか?」と言ったら、「宣伝ばかりする街の医者は信用できない、行くんなら、ここにいた上先生のところに行きなさい。」と言われたものでした。『宣伝ばかりする街の医者は信用できない」こういうのは今も大学の先生にある意識だと思います。ただかなりの偏見です。

高須先生(先駆者)

高須克弥のコピー 高須克弥先生が日本で一番有名な美容外科医であるのは皆、異論がないと思います。この先生が『美容整形』をマスコミに盛んに持ち込み、結果、一般の人々に身近に感じさせる上で、大貢献されていました。
 高須先生に対して、「反高須」の立場をとる長老の先生は少なくないのですが、そんな先生から私が直に聞いた言葉として、「今日診療していて、目の前に女性がいるのも実は高須の貢献とも言えなくはないのだよ。」というのがあります。安見先生や奥様も「高須先生が出てくるまでは、整形医院と言えば駅の裏路地のビルで、何か胡散臭いことをやってる、来てる患者もいかがわしいってイメージで見られてたのに、今は随分変わった。」と述懐されていました。奥様は「高須先生っていつもどうしてああも明るいのかしらね。会ったとたんスラスラと楽しいお話が聞けるの。一種の天才よ。」などとも言われていました。(続く)