なぜ「お医者さんはいませんか」に手を挙げないのか?→責任が・・・

中山祐次郎先生の「なぜ医者は『飛行機の中にお医者さんはいませんか』に手を挙げないのか?」を先日読みました。
そして高須克弥先生が、この件で何かご主張されていたはずで、探せば出てきました。
|高須院長「人任せにするな!逃げるな!これが医道ってもんだ!|とあります。『嗚呼、高須先生は凄いな。カッコイイなあ。』です。

対する私は一度だけ「お医者様はいませんか?」のコールに応じたことがあります。新幹線の中でのことです。アナウンスは詳細で「手を引っ張られたら肘が抜けたようになった4歳のお子さんがいます。~お医者様はいませんか?」とのことでしたので、「肘内障だ!」と、とっさに立ちあがって、その子供の席まで行き、エピソードを親に再確認した上で、(骨折などの除外診断のため)、視診、触診後に間違いなく肘内障と観れば、肘関節と前腕を掴んで、サッと整復操作をしました。私の左の親指に“クリック感”を得ましたので、『完了!』と分かり、「はい、僕、両手を上げて下さい。」と言えば、きちんと万歳が出来たので「OKです。」となった、誠にカッコイイ体験があります。
後日JRから3000円分の謝礼が届きました。

ただこれが整形外科領域でなかったら、どうだったか?・・・私は徳洲会主義(困っている人に手を差し伸べる)を自認していますし、救命救急的なことは素人ではないとは思っていますので、3~4年前なら、日本国民として、また医師の職責として、やはり手は上げた気はします。

3~4年前と書いたのは、日本での現実の世界として「善きサマリア人の法」が日本では適応され難い。つまり上手く行かなかった場合は責任を取らされ、賠償を課されている例があると近年は知ってしまったからです。

徳洲会つまり私にとっての奉職した湘南鎌倉総合病院、茅ヶ崎徳洲会総合病院では、今、救急の患者さんを診ている最中に、また救急隊から連絡があり、例えば「本日は祝日なので、もう何処も救急が受けられないと言うのです。お願いします。」と連絡がくれば、『徳洲会は救急を絶対に断らない』方針なので、受けては院内にいる先生方に、そして祝日、夜間など人手が足りない時はオンコール当番、または当番でない先生にも連絡して、とにかく人手を増やして対応していましたが、『前もって十分なマンパワーが揃っていない中で、また次の救急を受け、後手に回って人を集めてやっと対応』の繰り返しでした。それでも何とか対応できていましたし、あの頃は『受けていなければ、あの患者さんは死ぬか重症後遺症を残したはず。』と思えば徳洲会主義で良いと思っていました。

しかし都心部の徳洲会みたいな病院は日本では稀ですし、冒頭のように飛行機の中で急病に対応なんて限界があり過ぎです。
今の私は自分のクリニックの目の前に居る患者さんに全力を尽くす覚悟ですし、受ける以上はそれが出来ていると思いますが、外界で医療行為に携わるのは、全くの自分の専門領域または整った条件の元でしか出来ない感覚になってしまっています。