日本美容外科学会 前日

明日、日本美容外科学会(JSAPS)が久留米大学形成外科の主催にて北九州(小倉)で開催されます。
コロナ禍なので参加を躊躇もしていましたが、主催者側に演題がなかなか集まらなかったようで再三の演題募集を掛けていました。
私は久留米大学には整形外科医局員として働いていましたが、大学での勤務1年9カ月の間、形成外科の先生方に色々ご指導賜った御恩は忘れませんので、学会を盛り上げるのに微力ながらお力添えしようと結局、後の方で演題募集の登録をし、北九州行きを決めました。

それと北九州行きにはもう1つ理由がありました。私は研修医2年の頃に久留米大学の傘下の門司労災病院(現:門司メディカルセンター)に勤務していました。ここでは月平均160時間の残業するほど働き(但し残業代の申告は60時間までしか行ってはいけないと言われており、100時間ほどは無給勤務)、整形外科研修もそれなりに身に着きました。それでまた門司(門司港)を見たかったのです。
当時も私は殆ど働いてばかりで、住んでいたアパートも夜遅く帰ってはシャワーを浴びて寝る、洗濯機から出した洗濯物を室内の一室に干しておくだけで、アパート内で楽しみごとをやった記憶はないです。だから今回アパートを訪れても特に郷愁が湧かなかったものです。外壁の塗り直しがされていたことには安堵しましたが。

レンタカーで移動してて『これだ!』と熱い郷愁にかられたのは高速道路を疾走した時です。私は門司労災勤務時間以外は極力、福岡市の美容外科に高速を飛ばして通っていたのです。160kmくらい出しますと、門司から福岡市中心部に45分くらいで着けました。2度速度違反でパトカーに捕まったこともありましたが、白衣を着たまま運転していたので、2度とも見逃してくれました。
門司労災では私は平日は先輩の先生が帰宅されてもなお深夜まで居るのに、土曜は13時になると駆け足で駐車場に行っていたので、不審がられていましたが、土曜の午後と日曜の美容外科勤務は結局バレることなく過ごせました。

美容外科クリニックでは昭和63年の7月に院長が私の真後ろにいて付きっきりで3名の患者さんの埋没法の手術のチェックをし、幸いに上手く出来ましたから、その後は院長は私に埋没法は任せ、最後だけチェックという形で勤務させて頂きました。あの頃は日々埋没法を行いたい衝動でワクワクしていたものです。

なおこの昭和63年の頃の美容外科勤務は「無給」でした。クリニックには昭和63年の2月に「無給で良いから勤めさせて下さい。」と頼んだのです。大学病院では下の学年では無給が今も昔も当たり前ですし、当時の私からしても、モノを教えてもらうのだから「給料をくれ」とは、おこがましいと思えたのです。